エコ活について その6
少し長くはなりますが、引用させていただきます。
『読者の広場 新刊ニュース』1994年9月号に掲載された、ナンシー関の文章。
「ちゃんとした生活、それはものを腐らせない暮らしだ」
親元を離れて一人暮しを始めたとき、あることにショックを受けた。
それは、ものがどんどん腐っていくことだ。
いや、「ショック」というより、「驚愕」という大仰な漢字で表した方がいいかもしれない。
初めての驚愕は味噌汁だったように記憶する。鍋の中の昨夕の豆腐の
味噌汁が、朝、腐っていたのだ。たしかに真夏であった。
しかし、忘れて放っておいたわけでもなく、同じ味噌汁を2回の食事で食べきるというのは
(私としては)ごく普通の生活なのに、「腐る」ということで、その生活が妨害されるなどとは思ってもいなかったのである。
腐った味噌汁を流しに捨てながら、まだ私は半日足らずで物が腐るということが信じられずに、「最初から豆腐が腐りかけていたんじゃないか」などと首をかしげていた。
~(省)~
私はものを腐らせることを「恥ずかしい」と思っている。
なにかを腐らせるたびに「ちゃんとした生活をしていないからだ」と責められているような気がするのだ。
本当は別に「ちゃんと」したいわけでもないし、いや、何をもって「ちゃんと」とするのかも分からないのだが、ものを腐らせることは生活というもの自体をやりこなせていないということで、屈辱なのである。
私は整理整とんの類も苦手だが、たとえば、本を本棚に戻さず床に放っておいても、それは私の勝手であると堂々と言える。
しかし、ものを腐らせることは申し開きの立たない過失である。
実家の生活を難なくやりこなしているのは母である。
その「難なく」ぶりは、まるで何もしなくても生活が回転しているようにさえ見えた。
当然それはそうではなく、火曜日のカレーを土曜の昼に食べるためにはその間、毎日1回火を通していたり、ごはんの入ったおひつにフタをしないでふきんをかけておいたり、冷蔵庫の奥の常備菜も味の変わらないうちに食卓に出したりということを、生活としてやりこなしていたからなのである。
とは言いつつ、今夏もすでにいろんなものを腐らせた。
チューブ入りのおろししょうががダメになっていたのには驚いた。
フタが半開きだったからだろうか。ちゃんとしよう。
冷蔵庫を開き、くたびれた葉ものや、しわになった根菜類、固形化して重みが変わったと手に感じる牛乳パック、つい最近まで食べていたお惣菜にある箇所だけ別の宇宙を顕現させた胞子類を見ると、なんとも居た堪れない気になる。
それはナンシー関と同様に、何かから「責められ」たり、何かに対して「申し開きの立たない過失」を覚えるからかもしれない。
この、腐ったものを目の前にして、遠くから呼びかけてくる「何か」こそ、かつて、生態学として呼ばれていた「エコ(ロジー)」であるのかもしれない。
※昨今の省エネのためのハイテクノロジーに驚異を感じるとともに、引用文章上段の「驚愕」ということに関して、腐るという不思議と同時に、育つという不思議を垣間見せてくれた大根。
こちらのサイトで全文を読むことが出来ます。http://home.catv.ne.jp/dd/m1558m/nancyseki/jiten.htm
(arata)
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