今年の2大ニュース その7
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ブログのテーマ [何度も聴き返している音楽について] 夏は、音楽とアウトドアが結びついて野外フェスが目白押し。 そこで、常日頃iPodなどで良く聴いている音楽は何か、思い返してみした。 つれれこ社中「雲」 アルバムに入っている曲名 1.肉屋 2.田家春望 3.炊事節 4.ツレレコ節 5.はいこう 6.鉛の兵隊 7.藪 8.トリちゃんの夢 9.私は笑った事がない 10.日々草の唄 11.去年の雪 12.鰻と梅干 13.煮込みワルツ 14.新大漁節 何度聴いても以下のような感想を抱く。 労働歌や、民謡・童謡あるいは壮士演歌、 講談や都都逸や朗読詩でも宗教歌でもない その音楽は、日本国という土地の音楽であったのか、 いつの年号の音楽であったのか、ついぞ分からない。 ただ、誰かの家の台所から聞いた気がするような、 くさっぱらを歩いて聞いたような、判然としないまま、 しかし、どこから鳴っているのか問おうとすることすら 忘れてしまうようなそんな音楽。 「つれれこ」という社中の名も何を意味するのか。 連れれ子、釣れれ弧、吊れれ鼓・・・ '92年に上野茂都(vo.三味線)、鈴木常吉(vo.ac.g)、桑畑繭太郎(mln.perc) と、つれれこ社中を結成し、'97年にオフノートよりフル・アルバム「雲」を発表。'00年つれれこ社中解散。日本のトラッドの傑作として知られる。
(arata)
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沖縄で文学を書くということ 目取真俊 平和通りと名付けられた街を歩いて-目取真俊初期短編集 社員旅行で沖縄に行くことになりました。 晩夏に日本の南に行ける事を今から楽しみにしています。 旅行の行き先が決まり、ふと、手にしたのが、今回の本です。 作者は1960年の沖縄生まれ、1997年『水滴』で芥川賞を受賞しています。沖縄の風土、歴史を色濃く反映した短編が多くあります。 今回の本は初期短編集ということもあり、文面から、沖縄に文学を建てるという初期衝動が感じられます。 物語は、沖縄の戦後というテーマーを取り扱っています。 戦争で受けた悲しみのそのやり場の見えにくい曖昧な怒りによって物語を稼動させていく様は、沖縄の固有な歴史を描き出しています。 現在も沖縄/文学を背負おうとする作者の気負いを、また、地方と文学(物語)のあり方を、平和通りを歩く際に、少し思い返してみたいです。
(arata)
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少し長くはなりますが、引用させていただきます。
『読者の広場 新刊ニュース』1994年9月号に掲載された、ナンシー関の文章。
「ちゃんとした生活、それはものを腐らせない暮らしだ」
親元を離れて一人暮しを始めたとき、あることにショックを受けた。
それは、ものがどんどん腐っていくことだ。
いや、「ショック」というより、「驚愕」という大仰な漢字で表した方がいいかもしれない。
初めての驚愕は味噌汁だったように記憶する。鍋の中の昨夕の豆腐の
味噌汁が、朝、腐っていたのだ。たしかに真夏であった。
しかし、忘れて放っておいたわけでもなく、同じ味噌汁を2回の食事で食べきるというのは
(私としては)ごく普通の生活なのに、「腐る」ということで、その生活が妨害されるなどとは思ってもいなかったのである。
腐った味噌汁を流しに捨てながら、まだ私は半日足らずで物が腐るということが信じられずに、「最初から豆腐が腐りかけていたんじゃないか」などと首をかしげていた。
~(省)~
私はものを腐らせることを「恥ずかしい」と思っている。
なにかを腐らせるたびに「ちゃんとした生活をしていないからだ」と責められているような気がするのだ。
本当は別に「ちゃんと」したいわけでもないし、いや、何をもって「ちゃんと」とするのかも分からないのだが、ものを腐らせることは生活というもの自体をやりこなせていないということで、屈辱なのである。
私は整理整とんの類も苦手だが、たとえば、本を本棚に戻さず床に放っておいても、それは私の勝手であると堂々と言える。
しかし、ものを腐らせることは申し開きの立たない過失である。
実家の生活を難なくやりこなしているのは母である。
その「難なく」ぶりは、まるで何もしなくても生活が回転しているようにさえ見えた。
当然それはそうではなく、火曜日のカレーを土曜の昼に食べるためにはその間、毎日1回火を通していたり、ごはんの入ったおひつにフタをしないでふきんをかけておいたり、冷蔵庫の奥の常備菜も味の変わらないうちに食卓に出したりということを、生活としてやりこなしていたからなのである。
とは言いつつ、今夏もすでにいろんなものを腐らせた。
チューブ入りのおろししょうががダメになっていたのには驚いた。
フタが半開きだったからだろうか。ちゃんとしよう。
冷蔵庫を開き、くたびれた葉ものや、しわになった根菜類、固形化して重みが変わったと手に感じる牛乳パック、つい最近まで食べていたお惣菜にある箇所だけ別の宇宙を顕現させた胞子類を見ると、なんとも居た堪れない気になる。
それはナンシー関と同様に、何かから「責められ」たり、何かに対して「申し開きの立たない過失」を覚えるからかもしれない。
この、腐ったものを目の前にして、遠くから呼びかけてくる「何か」こそ、かつて、生態学として呼ばれていた「エコ(ロジー)」であるのかもしれない。
※昨今の省エネのためのハイテクノロジーに驚異を感じるとともに、引用文章上段の「驚愕」ということに関して、腐るという不思議と同時に、育つという不思議を垣間見せてくれた大根。
こちらのサイトで全文を読むことが出来ます。http://home.catv.ne.jp/dd/m1558m/nancyseki/jiten.htm
(arata)
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